高山右近資料館 ギャラリー・ジュスト

高山右近が求めた生き方とは何だろうか

皆様、久しぶりに更新いたしました。
今回はギャラリーで何をしたかという報告ではなく、ギャラリーで常日頃考えていることを皆様にお伝えしておこうと思います。

それは、高山右近が求めた生き方とは何だろうか、それが今日の時代にどう影響しているのかということです。

高山右近がキリシタンとして生きていたことは誰もが知っていることですが、ではキリシタンとしてどう生きていたのかということをもっと掘り下げようと思います。
彼は忠実な信仰者として、それにふさわしい態度や物腰、更には誰もに対して平等に対応する姿勢が評価されているわけですが、その根底にある彼のモチベーションとは何であるのかということも大事なことです。

彼は、豊臣秀吉による「伴天連追放令」のために逃亡の生活を送ることとなりますが、そこにはいつ捕らえられたとしても殉教するという覚悟ができていました。それは彼が金沢を追われる時でも同じ心持でした。それだけではなく、彼が何事もなく金沢で生きている、あるいは生活をしている時でも常に持ち合わせていた生きていくためのモチベーションであったと思います。「いつ神に召されることがあっても大丈夫だ、死は恐れではない」という思いを持って生きていたのです。

新約聖書の中で使徒パウロがピリピ人への手紙の中で同じことを吐露しています。

「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」

と。

キリストのために生きていくだけではなく、キリストのために死をも覚悟して生きていくという思いを高山右近もまた幾多の生死を彷徨う経験を通して自ら持つようになったのでしょう。

この殉教への憧憬は今日の生活には似合わないことかもしれませんけれど、誰もが自分の生き方を問うて、自分が何のために生きているのかということへの問いに対する、一つの答えであると私は思います。キリストの前に命がけで生きていく、だから、この世の富や権力に執着するのではなく、いつ神に召されることがあっても潔くいられる生き方を常に問うていたのでしょう。これこそ、彼の生きているためのモチベーションであったのです。

最近、この

「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」

という聖書の言葉と高山右近の生きざまとがリンクする思いを持つようになりました。
皆さんはいかがお考えでしょうか。

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